『遅配された声は夕食のあとで』
この町では、謝罪は冷蔵便で届く。
大規模盗聴事件のあと、親しい相手へ向けた私的音声は、原則として網に流せなくなった。見舞いも、仲直りも、「窓を閉めて」というだけの声も、いまは温度管理された缶に封じて人が運ぶ。泣き声はぬるいと角が崩れ、怒鳴り声は温まると必要以上にふくらむ。通信監理庁の委託を受ける連絡局では、そう教わる。僕は朝六時に保冷箱を受け取り、防潮堤の内側へ向かった。今日の伝票には、私信・保留音声便、録音日 七年前の九月高潮後、差出人 直井明人、受取人 波止食堂 文、とある。送り主は死亡。要件欄は空白だった。謝罪はだいたい、その空白でわかる。
海は見えない。
見えないように高くされた。
そのかわり、町には波の代わりに配達時刻表が貼ってある。朝のフェリーを降りると、堤防の内側の道はまだ濡れていた。夜の風で飛ばされたらしいビニール傘が、側溝に一本はさまっている。町は新しくないのに、古びることもあまり許されていない感じがした。塗り直した壁の下に、薄く残る水位の線だけが古い。
配達先は《波止食堂》だった。
引き戸の上に青い暖簾がかかり、店はまだ開いていないのに、出汁の匂いだけが表へ漏れていた。台所では、受取人の文さんが、鍋の火加減を見ながら卵を割っている。僕より十歳くらい上だろうか。手の甲に小さな火傷の痕がいくつかあった。
「連絡局です。音声便をお届けに来ました」
文さんは三つ目の卵まで割ってから、ようやくこちらを見た。
「音声?」
「はい。差出人は、直井明人さん」
その名前を聞いた一秒だけ、手が止まった。
止まったのは一秒だけで、殻はすぐボウルへ落ちた。
「受け取りません」
僕は伝票を見直した。
受取拒否は珍しくない。珍しくないだけに、だいたい困る。
「仮保管ならできます。今日じゅうの返答で構いません」
「今日じゅう」
文さんは店の奥の時計を見た。
そのすぐ下に、古い水位の線が走っていた。
「置いていって。まだ聞かないけど」
保冷箱は店の隅に置かれた。
銀色の小さな音声缶が、蓄冷剤のあいだに指先みたいに埋まっている。僕は仮保管票へ署名をもらい、再訪の時刻を考えた。だが昼前にはフェリーが止まり、山側の道路も風で封鎖された。低気圧が予報より早く寄ってきたのだという。
「足止めね」
文さんはそう言って、受取拒否の相手に向ける顔ではなく、ただの客に向ける顔で僕を見た。
「昼、まかない食べる?」
「仕事中です」
「配達員って、仕事中に食べないの」
「食べます」
「じゃあ食べなさい」
その言い方が業務連絡みたいだったので、断りそこねた。
昼の食堂は静かだった。
客は三人だけ。防潮堤工事の作業員と、魚屋の老人と、郵便の人。全員、風の向きについて少しずつ違うことを言いながら、同じ定食を食べていた。文さんはよく喋る人ではなかったが、皿が空く前にご飯を足す動きだけはやたら早い。客が風の話をしているあいだに、鍋のほうはもう次の客の準備に入っている。そういう店だった。
僕は配達員だから、本来は食堂の事情に踏み込まない。
配るものは声であって、その前後の関係ではない。けれど、防潮堤の内側の町というのは、来たものをだいたい一度は食卓へ座らせる癖があるらしい。風が強いせいかもしれない。扉が鳴るたび、誰かが席を詰めた。
午後、町の放送が風の注意を流し、同時に食堂の軒がきしみ始めた。
文さんは帳場の横へ丸椅子を一つ足した。そこへ僕の保冷箱を置く。気になって見ていると、彼女が言った。
「この町では、声は夕食のあとで聞くの」
「皆で、ですか」
「たいていは」
文さんは湯呑みを伏せながら続けた。
「九月高潮のあと、ひとりで受け取った声はだいたい持て余したの。
それに空腹のときに人の声を聞くと、たいてい命令に聞こえる」
変な理屈だった。
でも、食堂には変な理屈がよく似合う。
夕方、店はふだんより少し早く混み始めた。
天気が荒れる前に飯を食っておこうという客もいるのだろうし、風の強い日は家で一人に聞こえる音が増えるので、人のいる場所へ寄りたくなるのかもしれない。食堂の片隅には非常用蓄電池につながった旧式スピーカーがあり、その下に音声再生機が置かれていた。
食後、文さんが皿を下げる音を合図みたいにして、最初の音声缶がセットされた。
「山崎和子さんへ」
女の声が言った。
「冷蔵庫の二段目の味噌は濃いほうだから、薄めて使って。
あと、台所の窓、今日は閉めて」
それだけだった。
向かいの席の老女が「わかってるわよ」と笑った。すると隣の魚屋が「あんた先週、濃いほうで味噌汁つくってたぞ」と余計なことを言い、老女が「それは先週」と言い返した。声の中身は短くても、そのあとに食卓の会話が増える。
二本目は、漁具店の甥から叔父へだった。
「犬は台風の日だけ中に入れて。
倉庫の鍵、赤いバケツの下」
叔父らしい男が眉をひそめ、「鍵の場所は言うな」と言った。まわりが笑った。
三本目は、東京で働く息子から床屋の父親へ。
「母さんの膝、気圧の下がる前に痛くなるから、今日は無理させないで」
その声は照れくさそうで短かった。短かったが、床屋の主人は食後の湯呑みを持つ手つきが少しだけ丁寧になった。
配達物は、思っていたより生活だった。
遺言や告白ばかりではない。閉め忘れた窓、濃すぎる味噌、犬のこと、膝のこと。そんなものをわざわざ冷やして運ぶのかと思っていたが、冷やしてでも届いたほうがいい声はたしかにあるらしかった。
文さんの保冷箱だけは、最後まで開けられなかった。
営業が終わって客が減るころ、僕は皿洗いを手伝った。
そのほうが居心地がよかった。配達員として立っているより、風で帰れなくなった雑用係として湯呑みを拭いているほうがましだった。
「直井さんって、どういう人だったんですか」
聞くべきではないと思いながら、聞いてしまった。
文さんはしばらく黙って、濡れた皿を棚へ戻していた。
排水の音だけが大きい。
「兄の友達」
「……はい」
「九月高潮のあと、炊き出しを一緒にやってた人。兄より器用で、兄より要領がよくて、兄より早く町からいなくなった」
そこで、火の消えた鍋のふたが小さく鳴った。
「兄が残した炊き出しのノートを持っていったの。
整理して返すって言って。
レシピとか、分量とか、代用品とか、兄の字がいっぱい入ってた」
「返ってこなかった」
「葬式にも来なかった」
文さんはそこで初めてこちらを見た。
「それで七年後に声はないでしょう。
味の記憶だけ持っていっておいて」
怒っていた。
でも、怒りきれてはいなかった。
怒りきれない人は、こういうとき鍋からなかなか目を離さない。
風がさらに強くなった。
戸が鳴り、軒先の提灯が一度消えた。ほどなく町じゅうが停電した。食堂の非常灯だけが黄色く残り、蓄電スピーカーのランプが青く点いた。
僕は連絡局の習い性で、真っ先に保冷箱の蓄冷剤を触った。
まだ冷たい。
文さんは卓上コンロを出し、途中まで仕込んでいた汁の鍋をそちらへ移した。
「窓、閉めましょうか」
僕が言うと、文さんは少し考えてから答えた。
「右だけ。左は建てつけが悪いから、鍋のふたを立てかける」
その言い方に、まだ聞いていない音声の中身が、急に実用品のほうへ近づいた気がした。
人は死ぬ直前まで用件を持っている。
暗い店で、文さんがぽつりと言った。
「聞くなら、今かもね」
「今ですか」
「荒れた日に聞いた言葉は、少しだけ独り占めしなくて済むから」
僕は保冷箱を開けた。
銀色の音声缶は、蓄冷剤のなかでまだきちんと冷えていた。再生機へ差し込み、文さんと並んでカウンターの内側へ座る。客はもう帰っている。店には鍋の湯気と、風の音と、停電のせいでやたらまじめになった僕たちの姿勢だけがあった。
再生ボタンを押す。
最初に、短い咳払いが入った。
それから男の声。
「文へ。
葬式に行けなかった。
ノートも返せなかった」
そこで一度、紙をめくる音がした。
油を吸った紙の、少し重い音だった。
「魚の頁だけ、もう勝手に開く。
角は去年の火で焦げた。
骨は最初に焼く。焦がしすぎない。
味噌は最後まで待たない。途中で半分。
足りない日は、水でのばす前に昆布茶を三つまみ。
生姜は多め。
大鍋のときは右の窓を閉める。左は鍋のふたを立てる。風が回る。
ノートそのものは返せない。
順番だけ返します。
……遅くなりました」
四分二十秒の缶は、そこで切れた。
長い言い訳は入っていなかった。だから、残った。
文さんは目を閉じた。
泣いたのではなく、匂いを確かめるみたいに。
停電の店で、再生機のランプだけが静かに消えた。
風は相変わらずうるさかった。
文さんはしばらく黙ってから言った。
「兄のじゃない」
「はい」
「でも、町の味ではある」
それだけで、その晩の話は終わった。
僕たちは鍋の前へ戻った。
文さんは何も言わずに骨を焼き始めた。僕は生姜をすった。停電の台所でやることは、妙にまっすぐだ。火加減、匂い、鍋の縁につく泡。謝罪のあとに残るのは、たいていこういう実務だった。
「昆布茶、三つまみ」
文さんが言った。
僕は小さじを探しかけて、やめた。
指で三つまみ入れた。
汁は一晩、弱火で置かれた。
朝、風の残る町に匂いが広がった。
フェリーはまだ止まっていた。僕は局へ遅延報告を入れ、返答待ちのあいだ食堂に残った。文さんは朝から鍋を温め直し、兄の味だったかどうか誰にも判断させない顔で丼を並べた。そこへ匂いにつられて、昨日の客たちがまた来た。
魚屋の老人が、ひとくちすすって言った。
「近いな」
床屋の主人が言った。
「でも違う」
郵便の人が言った。
「違うほうがいいんじゃないですか」
誰も正解を持っていない顔で、同じ鍋を囲んだ。
それで十分だった気もするし、ぜんぜん足りない気もした。
足りないまま、みんなもう一杯ずつ食べた。
昼すぎ、風が少し弱まったころ、文さんが録音票を持ってきた。
連絡局の簡易録音用紙だ。普段は窓口で渡すものだが、配達員も予備を何枚か持っている。
「一本、お願いできる」
「差出先は」
文さんは少し考えた。
店の外、防潮堤の向こうで何も見えない海のほうを、一度だけ見た。
「炊き出しを手伝った人へ」
規定では、相手が曖昧すぎる。
個人名か、登録済みの団体名がいる。宛先が足りない私信は、だいたい未達になる。けれど、波止食堂の台所には、規定の書き味より少し先に鍋がある。
僕は勝手口を簡易録音ブースにした。
壁にタオルを掛け、卓上マイクを置く。
文さんは泣きも笑いもせず、仕事の連絡みたいな声で言った。
「炊き出しを手伝った人へ。
窓は閉めました。
鍋はまだ火にかかってます。
思い出したら、食べに来てください」
十二秒だった。
再生確認をすると、音の奥で鍋のふたが小さく鳴る。
文さんは録音が終わると、何も言わずマイクを僕へ返した。
ラベルの宛先欄は空白のままだった。
僕は少し迷ってから、区分欄にだけ書いた。
保留
夕方、ようやくフェリーが動いた。
防潮堤が遠ざかる甲板で、僕は膝の上の保冷箱を押さえていた。ひとつは配達完了の空箱で、もうひとつは宛先の足りない十二秒の声が入った箱だ。箱の外側はきちんと冷えているのに、指先にはまだ生姜の匂いが残っていた。
届くかどうかはわからない。
でも夕食のあとなら、宛名の足りない声にも、湯呑みくらいは置いてもらえる気がした。