『共同睡眠組合』
線路を一本、余らせかけた夜がある。
終電のあと、高架の継ぎ目板を見ていた。七月の熱がレールにまだ残っていて、軍手の内側までぬるい。僕はボルトを締め直したつもりで確認票に丸をつけ、犬釘袋を持ち替えようとして一瞬だけ目を閉じた。ほんの一秒だったと思う。目を開けたとき、保線用モーターカーはもう動き出していて、僕が「良」と書いた継ぎ目の片側で、ナットが一つだけ夜目にもわかるほど高く浮いていた。
僕は赤灯を放った。車輪が嫌な音を立てて止まり、先輩が僕の肩を掴んだ。怒鳴るかと思ったが、怒鳴らなかった。怒るより先に、これが一秒ぶんの居眠りだとわかった顔だった。
点検所へ戻ると、班長は報告書の余白に小さく書いた。
仮眠不可。睡眠介入を検討。
この街では、睡眠はもう体調管理ではなく、業務インフラに近い。熱波と夜勤の増加で、深い睡眠は公共資源になった。市営共同睡眠者協同組合は、そのためにある。建物はもと小さな水族館で、入口のガラスが妙に厚く、廊下が不必要に青い。眠りを積んだ保冷車は、だいたい魚市場みたいな音でバックしてくる。
受付の壁には、その日の在庫が出る。
A級 19枠
B級 34枠
C級 22枠
A級は深い。B級は起きやすい。C級は夢が混じりやすく、説明文だと少し役立たずに見える。だが現場では、C級のほうが助かる人もいる。泣きやまない子どもの横で寝る親や、パニックのあとで息だけ整えたい人には、浅い眠りのほうが体へ戻りやすい。制度の文章は、そのへんのことをだいたい後から知る。
僕はA級の九十分を借りた。耳の後ろへ薄いパッチを貼り、貸睡カプセルで横になる。提供者が寄付した睡眠波形を自分の睡眠へ一時的に重ねる仕組みで、乱暴に言えば、よく眠れる他人の寝方を借りる。導入音は選ばない。効けばよかった。あの夜以降、布団に入るたび頭の奥で金属音が鳴るようになった。ボルトが一本、まだどこかで遊んでいる。耳ではなく、歯の裏で響くような音だった。
最初に借りた眠りのラベルは無記名だった。
第17群 冬-04
年齢も性別もない。ただ、睡眠深度安定、途中覚醒少、回復効果高とある。
匿名なのがありがたかった。知らない誰かの眠りを借りるのに、その人の顔までは要らない。顔を知ると礼が生まれる。礼が生まれると、眠りが少し重くなる。
ただ、第17群 冬-04を三回ほど借りたころから、僕はその眠りの癖を覚えてしまった。
深く落ちる直前に、生活の手前の断片が少しだけ混ざる。
白いタオルを三つ折りにする指。
冷たい麦茶のコップを床へ置く音。
夜中に一度だけ左のふくらはぎをさする癖。
小さな額へ手を当て、熱を見てから自分の眠りへ戻るときの短いため息。
自分ひとりのために寝ている人の眠りではなかった。
その眠りを借りた翌朝だけ、体が助かる順番が違った。まず顎の力が抜け、それから肩、最後に目の奥のざらつきがほどける。無味乾燥な導入剤だと、意識だけが先に落ちて、起きたあとも体のどこかがまだ夜勤の続きをしている。第17群 冬-04のあとだけは、先に体がこちらへ戻ってくる。
だから僕は週に二度、組合へ通った。
八月の初め、受付の壁に新しいポスターが貼られた。
あなたの眠りが価値になる
運営移管のお知らせ
ソムナリンク。睡眠配信と快眠広告で急に大きくなった会社のロゴが、妙に明るい青で刷ってある。説明会の紙には「適性プロフィール可視化」「反応最適化」「相性フィードバック」といった語が並んでいた。眠りには似合わない単語ばかりだった。
その週、壁の在庫表示から第17群 冬-04が消えた。
「代替があります」
受付係が言った。
「あなたにはA+の相性推薦が出ています」
市営時代のA/B/Cとは別に、運営会社がつけた推薦ランクらしかった。
A+という書き方が、まず気に入らなかった。成績表みたいだと思った。だが、その晩は本当に眠らないとまずかった。僕は黙って受け取った。
A+はよく落ちた。落ちるのは速い。意識だけが先に沈んでいく。だが起きたとき、体が戻っていなかった。顎はこわばったままで、目の奥だけが妙に明るい。頭のなかの金属音も、消えるというより薄い布を一枚かけられただけだった。
眠りの底では、緑のシャッターが見えた。白いチョークで乱暴に書いた「南4」のうち、4だけが鮮明だった。
起きてパッチを剥がすと、銀色の新ラベルが汗で少し浮いていた。端をつまむと、下から古い紙ラベルがのぞく。
第17群 冬-04
再包装
保留在庫
南4
印字は曲がり、赤いスタンプのインクが指先へ少しついた。新しい企業ロゴの下に、古い市の仕事が貼りついている感じだった。
その日の夜勤で、僕はまたやりかけた。
曲線区間の熱膨張警戒値が上がっていて、僕は測定器の数字を一度見、見たつもりで班長へ送ろうとした。送信前に先輩が横から端末を奪った。
「お前、今日も変だな」
言い返せなかった。図星だった。A+は眠らせたが、助けてはいなかった。
勤務明けの朝、僕は組合の裏手へ回った。
旧資材棟のさらに奥、取り壊し待ちの倉庫群が並んでいる。正面玄関は企業ロゴで貼り替えられていたが、裏のコンクリートは昔のままだった。南倉庫四のシャッターは半分だけ開いていて、壁際に緑の保冷箱が三つ寄せてある。いちばん手前の箱に、L字の深い傷があった。貸睡室の廊下を通ったあの台車に載っていた箱だ。
中では、ひどく地味な作業が進んでいた。
誰かが古い紙台帳をめくる。
誰かが配送タグを書き直す。
誰かが保冷箱のパッキンを指で押して、まだ閉まるか確かめる。
床には仮眠マットが敷かれ、隅で二人が本当に寝ていた。
白い簡易アイマスクをしているが、秘密めいた格好というより、顔色を見せる元気がないだけだった。
僕が立ち止まっていると、台帳を持った女の人が顔を上げた。
「借りる人ですか、運ぶ人ですか」
「たぶん、借りるほうです」
「たぶんで来るなら、どっちでも使えます」
その言い方が少しだけ救急外来に似ていた。
緑の箱の側面には、剥がれかけた古い備蓄票が残っていた。
九月高潮
補助睡眠
保留 南4
紙台帳には名前がない。誰が眠ったかではなく、どんな暮らしの疲れから来た眠りかだけが並んでいる。
高熱児付き添い/途中覚醒少なめ
運転業務後/分割睡眠
介護当番前/深睡四十五分
冷凍庫勤務明け/表面冷え強
誰も「ここはこういう理念の組合です」とは言わなかった。でも、それで十分だった。名前で配りきれない眠りを、必要だけ見て回す場所なのだとわかった。
奥のほうで、声を少しだけ機械に通した男が保冷箱を閉めながら言った。
「表は、誰にどれだけ効くかで値をつけます」
それから、僕の手にあった剥がれたラベルを見て続けた。
「こっちは、今夜どこへ要るかだけ見ます」
そのくらいの説明で足りた。鉄道の仕事をしていると、測るために打った印が、いつのまにか削る目印へ変わる場面をよく見る。眠りの奥にまで印をつけて市場へ載せるなら、たぶんやり方は同じだ。
僕は帰るつもりだった。組合の裏側を見たところで、頭の金属音が消えるわけではない。
けれど、台帳の端に見覚えのある群番号があった。
第17群 冬-04
深睡 安定
短時間回復高
夜間介助由来 途中負荷あり
途中負荷あり、という書き方が少し好きだった。人のくたびれ方を、この場所ではその程度の乾き方で書く。
「これ、まだ借りられますか」
僕が聞くと、女の人は肩をすくめた。
「反応のいいやつは、表に商品名をつけて出すか、囲い込みます」
「ここでは」
「ここは売る場所じゃなくて、回す場所です」
その日は眠りを借りる代わりに、ラベルを切るのを手伝った。革命には見えない。町内会の棚卸しに近い。赤は深睡、青は分割、黄は夢混じり。紙台帳の綴じ糸は何度も結び直されていて、保冷箱の蓋には古い配送先のシールが何層も重なっていた。未達。補助。仮配。保留。たいてい端の言葉ばかりが、よく働く。
八月の二週目、熱波が来た。
夜でも気温は三十度を下回らず、鉄道は膨張点検が増え、病院からは夜勤の追加枠が出て、冷凍倉庫と物流センターも仮眠の緊急配布を求めた。そういう日に限って、ソムナリンクの切替サーバが落ちた。
表の受付では、新しい制服の職員が同じ文句を繰り返していた。
「個人照合ができないのでお渡しできません」
「推薦再計算中です」
「しばらくお待ちください」
待てない顔の人ばかりだった。看護師、配送員、警備員、介護タクシーの運転手。椅子に座ったまま、眠ることも怒ることもできない顔だ。眠気には、怒鳴る体力から先に削るところがある。
僕はそこを抜け、南倉庫四へ走った。
シャッターは全開だった。誰ももうアイマスクをしていない。顔を隠す余裕がなくなると、人は先に手を動かす。
「来たんですね」
ぼかし声の男が言った。
「表は死んでます」
僕が答えると、台帳の女の人が顔も上げずに言った。
「表はよく死にます。裏が少し先に生きるだけです」
その夜、僕たちは眠りを手で仕分けた。
深睡だけを高負荷の職場へ回せばいいわけではない。四十五分しか横になれない病棟には、落ちすぎない眠りが要る。輸送の交代要員には、B級のほうが起きやすい。C級は説明文だと格が低いが、夢の混じる軽睡は、泣き止まない子の横で眠る親や、恐怖で体が固まったあとにはむしろ相性がいい。そういうことを、倉庫の人たちは会議ではなく手つきで知っていた。
受付にいたはずの女性が紙台帳を読む。
誰かがタグを書く。
誰かが保冷箱を閉じる。
足のある人間が運ぶ。
僕は保線用の電動カートを持ち出し、まず市立病院の裏口へ一往復した。若い看護師が受取票へ名前を書きかけ、ペン先を紙につけたまま二秒眠った。隣の同僚が肩を叩くと、彼女は「いま寝た?」と聞いた。叩いたほうは「書いてからにしろ」と言った。どちらも笑ってはいなかったが、その会話が出るうちなら、まだ間に合う気がした。
二往復目は、自分の職場へ持っていった。
夜間保線詰所の空気は、油と熱で濃かった。班長が保冷箱のラベルを見て言う。
「表、まだ止まってるのか」
「裏だけ生きてます」
「だいたいの組織と同じだな」
先輩が箱からひとつ抜き、僕へ投げた。
分割睡眠二十分×二/運転業務後
「お前はこっちだ」
「僕ですか」
「お前だよ。線路を余らせたいなら別だけどな」
詰所の隅で二十分横になると、第17群 冬-04ほど深くはないが、体の戻り方が少しましだった。起きたとき、先に指先の震えが止まっていて、そのあとで歯の裏の金属音が遠くなった。外へ出ると、夜気はまだぬるかったが、レールはきちんと二本あった。
三往復目、四往復目と走るうちに、南倉庫四の床には仮眠マットが増えていった。配り終えた人からそこへ倒れる。借り手なのか提供者なのか、そのへんはもう誰も数えていない。紙台帳の端へ、誰かが走り書きした。
今夜の在庫
深い眠り 少ない
でも床はある
その字を見て、少し笑ってしまった。床がある、というのは大事だ。人間はだいたい、理念の前に床で助かる。
明け方近く、僕も空いたマットへ倒れた。今度はパッチを貼らなかった。誰かの眠りを借りるのではなく、寝息の多い場所で自分がどこまで落ちるか、試してみたかった。
シャッターの隙間から、朝前の灰色が入る。
深い人、浅い人、途中で咳をする人、眠る前に一度だけ舌打ちする人。
右隣の誰かが、入眠の直前に左のふくらはぎを小さくさすった。
第17群 冬-04かもしれない、と思った。
思ったが、目は開けなかった。
名札を見ないために、ここまで来たのだ。
知らないまま助けられている関係のほうが、たぶん長持ちする。
眠りは深くなかった。市の基準ならB級か、その少し上くらいだろう。でも、金属音は出なかった。夢の底で、白いタオルが三つ折りにされるのが見えた。向こうに緑のシャッターがあり、その下へ古い保冷箱が押し込まれている。L字の傷だけが、朝の光で少し白かった。
起きると、紙コップの麦茶が置かれていた。底に配送タグの切れ端が貼りついている。
昼に二十七分でも寝て。
できれば足を高くして。
字に見覚えはなかった。
見覚えがなくてよかった。
僕はその紙を胸ポケットへ入れた。南倉庫四の番号は半分消え、保留庫の赤判もだいぶ薄くなっていた。薄いが、まだ読める。
昼、ほんとうに二十七分だけ寝た。
起きて線路へ出ると、レールはいつもどおり二本あった。一本も余っていない。その当たり前に値札をつけたがる人はこれからもっと増えるのだろう。でも、線路を一本余らせかけた人間には、そのくらいの短い字が、だいたいちょうどいい。