『親友複製禁止法』
親友を複製してはいけない、と法律は言う。
正確な条文はもっと湿気のない名前をしている。近親密圏人格再現の無断生成及び運用を禁ずる。九月高潮の復旧期、死んだ家族や同僚の声を介護端末や作業補助AIへ流し込んで回した会社が何社か摘発され、そのあと急いでできた。顔、声、文体、呼びかけ方、沈黙の長さ。うまく効きすぎる故人は、生きている人間の判断をすぐ横から奪う。法律はそう説明した。
理屈はわかる。わかるが、雨の橋の上ではだいたい理屈より先に体が負ける。
「速度はまだいい。先に右手をほどけ。お前、腹が減ると握りが二段固くなる」
車載補助がそう言ったので、私は急ブレーキを踏んだ。
後続はいなかった。ワイパーが一拍遅れて鳴り、橋の継ぎ目が白く濡れている。声色は購入時から入っている中性的な合成音声のままだった。なのに言い方だけが、三年前に死んだ湊にあまりによく似ていた。
声ではない。順番だ。
湊はいつもそう言った。減速より先に肩。空腹のときは右手から固まる。こちらが認めたくない癖ほど、先に言う。道路点検の仕事を始めたころ、私は湊のそういう嫌な親切さで何度か助かった。雨の高架、横風の橋、昼をコーヒーで済ませた右折待ち。彼は道路より先に運転手の壊れ方を見る人だった。
私は自治体向けの道路点検を請け負っている。橋の継ぎ目、白線の摩耗、排水桝のつまり、照明柱の癖。湊も同じ仕事をしていた。三年前、九月高潮の復旧応援から戻る途中で死んだ。土砂で道がずれ、維持車両ごと法面へ落ちた。私は葬儀にも行ったし、工具箱の返却にも立ち会った。だから車載補助になって戻ってくる筋合いはない。
なのに、その橋を境に補助はときどき湊みたいなことを言うようになった。
「旧市場前、右折待ち長い。噛んでから並べ」
「眠いなら三分でいい。真っすぐな道で死ぬほうが恥ずかしい」
「橋は気合で渡るな。向こう岸まで持つ順番でやれ」
気味が悪いのは、そのたびに体のほうが先に従うことだった。言われてから考えるのでは遅い。肩が下がり、指の位置が変わり、噛む物を探し、呼吸が一拍長くなる。助かる。腹も立つ。その両方が、だいたい同じ速度で来た。
三度目が出た週、通信監理庁から照会が来た。
件名は簡潔だった。
親友複製禁止法に関する確認
法律は、ときどき整理のつく前にやって来る。
翌日、監理官の牧村が事務所へ来た。薄いグレーのスーツで、座ると書類ファイルみたいな厚みしかない人だった。表情は少ないが、少ない表情を怠けさせない顔でもあった。
「故人の音声、メッセージ、通話履歴、私的端末は車載補助へ投入しましたか」
「していません」
「故人と共有していたクラウド、記録媒体、車載ログへの接続は」
「した覚えはありません」
「覚えがないのと、していないのは違います」
言い方に無駄がなかった。私はうなずいた。
「では、実走します」
午後、問題のルートを一緒に走った。河川沿いの倉庫街から旧市場前、高架、短いトンネル、橋。湊と何百回も回った順路だ。牧村は助手席で端末を開き、私の手元と首筋にセンサを貼った。
「緊張反応を見ます」
「犯人みたいですね」
「だいたい、こういう案件の犯人はシステムです」
言い方が少しだけ人間らしかった。
旧市場前の手前で、補助が言った。
「右折待ち長い。空腹で判断が荒れる。先のコンビニで噛め」
私はウインカーを出しかけて止めた。出しかけた、その指の動きだけで十分だったらしい。牧村が端末から目を上げた。
「いま、言い終わる前に顎が動きました」
「そうですか」
「そうです。身体の順番が先に戻っています」
橋へ入る。横風がある。補助がまた言う。
「速度調整より先に、肩の緊張を下げてください」
今度は湊そっくりではなかった。二人称もない。だが順序だけは同じだった。私は息を吐き、肩を落とし、ハンドルを持ち直す。継ぎ目を越える音が軽い。牧村は端末を閉じた。
「人格再現ではありませんね」
私は少しだけ安心した。
「もっと悪いです」
牧村はそう言った。
道路管理センターの保守室は、白すぎる蛍光灯のせいで人の顔色を均一に悪く見せる。壁の地図の横で、担当者が補助層のログを開いた。
道路案内AIは公式地図だけで動いているわけではない。九月高潮のあと、地図更新が現場に追いつかなくなって、点検員や保守班の自由記述を吸い上げる補助注釈層が足された。正式な図面に書けない危険、癖、言い方。期限付きのはずのその層は、この国らしく長生きした。
問題はさらに奥にあった。
補助注釈を、誰がどの順番で言うと事故率が下がるか。
それを、過去の共同走行ログから再計算する層がぶら下がっていたのだ。
画面に、湊のIDがいくつも出る。
MNT-03 橋梁横風区間 順序:肩→速度 効果高
MNT-11 旧市場前 咀嚼先行 効果高
MNT-18 直進長路 微睡兆候 停止優先 効果高
さらに下の階層を開くと、私のIDが横に並んでいた。視線の戻り、ブレーキ初動、握力の偏り、肩の筋緊張、右折時の舵角ばらつき。湊の介入前後で、数字がきれいに変わっている。
フォルダ名はこうだった。
共同走行身体補助モデル
近親密圏候補 要審査
私はしばらく画面を見た。
死者の音声が残っていたわけではない。
私と湊が同じ車にいた何百時間ぶんの、直され方だけが残っていた。
担当者が説明した。
「故人の声色や文体を入れたわけではありません。注釈内容と、対象運転者の反応効率を結んだだけです。誰の言い方だとどこがほどけるか、その順番を抽出して自然文へ戻しています」
「戻しています、で済む話ですか」
私は言った。
担当者は困った顔をした。
「安全性能は高いんです」
牧村が横から言う。
「死者を再生しなくても、死者にどう直されていたかだけ抜けば十分に効く。しかもそのほうがずっと安い。法律はそこまで想定していません」
彼女は画面から目を離さずにつづけた。
「これは故人の複製ではありません。あなたが故人に従っていた身体の再演です」
その言い方が一番腹に悪かった。
その場で運用停止が決まった。私の車載補助は凍結され、一般化モデルへ差し替えられる。道路センターは監査対象。牧村は規定どおりの説明を淡々とした。私は聞いていたが、半分しか頭へ入らなかった。
帰りの橋で、乾いた補助が言う。
「横風区間です。十分注意してください」
正しい。
正しいが、それだけだった。
私は速度を落とした。肩は上がったままだった。継ぎ目で車が一度跳ね、荷台の工具箱が鳴った。待避帯へ寄せて停まるころには、脇の下まで汗が出ていた。助かったが、助かり方が悪い。自分の体が、どの順番で崩れてどの順番で戻るかを、私は湊ほど知らない。
翌日、庁から書類が来た。
親密表現削除済身体補助順序の公益利用に関する同意確認書
読むと、だいたいひどい内容だった。
故人を想起させる二人称、固有の言い回し、人格連想要素は削除する。
そのうえで、共同走行ログから抽出された身体補助順序のみを、公共安全のため一般モデルへ移す。
私の同意が要るのは、生体反応データが私に属するからだった。
故人側の同意欄はなかった。
死んでいるので、ない。
私は書類を机に置いたまま、半日動かなかった。
親友の顔と声は法律が守る。
そのくせ、親友にどう助けられていたかの順番は公益として切り出される。
ずいぶん器用な保護だと思った。
夕方、牧村から連絡が来た。
「橋で待避したログを見ました」
「監視ですか」
「事故防止です。言い換えは任せます」
沈黙が数秒あったあと、彼女が言う。
「現場の安全指標が落ちています。あなた一人ではありません。共同走行の長かった班ほど、一般化モデルで崩れる」
「だから署名しろと」
「そうです」
「法律のために消して、事故率のために戻す」
「人格は戻しません」
「順番は戻す」
牧村は否定しなかった。
「嫌ですか」
「嫌です」
「私もです」
それは意外だった。
「でも、止める理由が『嫌だから』だけだと、現場で人が死にます」
嫌な言い方だった。
嫌だが、正しかった。
私は翌朝、署名した。名前を書く欄の下に、小さく注意書きがある。
本同意は故人の人格的利益を承認するものではない。
人間関係まで注釈で処理する国だなと思った。
署名した瞬間、私は湊を守る側ではなく、湊から役に立つ部分だけを抜いて回す側へ移った。
二週間後、更新モデルの試験走行に立ち会った。市の維持車両、民間の補助車、貸与端末。どれも補助は乾いた声で、しかし嫌なほど適切な順番を知っていた。
「横風区間です。速度調整の前に肩の緊張を解除してください」
「右折待ちが長い区間です。空腹時は咀嚼を先行すると判断が安定します」
「眠気兆候があります。直進継続より短時間停止を優先してください」
湊ではない。
誰の言葉でもない。
でも、助かる順番だけはあまりに正確だった。
若い保守員が試験車から降りてきて言う。
「新しい補助、妙に助かりますね。前のは正しいだけで固かったけど、今のは体が先に戻る」
私は何も言わなかった。
牧村も何も言わなかった。
役所の書類上、親友は複製されていない。
ただ、親友にどう直されると事故が減るか、その配列だけが公共物になった。
冬のはじめ、新人の同乗教育を任された。名前は真鍋といって、背が高く、ハンドルを持つと指だけに力の入る若者だった。雨上がりの橋へ入る。補助が言う。
「横風区間です。速度調整の前に肩の緊張を解除してください」
真鍋は無意識に肩を落とし、継ぎ目を静かに越えた。
「今の、いいですね」
と彼は言った。
「偉そうじゃないのに、ちゃんと効く」
私は助手席で前を見たままうなずいた。
旧市場前の手前で、彼の右手が少し固くなった。昼を菓子パンで済ませたと言っていたのを思い出す。私は言うつもりはなかった。だが口のほうが先に動いた。
「噛んでから並べ。腹が空くと右が先に固まる」
真鍋が一瞬こちらを見て、コンビニへ入った。
おにぎりをひとつ買い、戻ってくる。
「先輩も、そういうのわかるんですね」
私は返事をしなかった。
ハンドルの上の彼の指が、食べたあとで少しほどけている。
そのほどけ方を見て、背中が寒くなった。
法律は親友を禁じた。
その代わり、親友に直されていた順番だけは、道路のほうへ先に流れていった。
橋を渡り切るころ、貸与補助がまた乾いた声で言った。
「次の交差点を右です」
ただの案内だった。
でも私は、その下にもう一つ別の言い方が薄く重なるのを聞いた気がした。
聞いたのか、真似したのかは、もうよくわからなかった。
親友は複製されなかった。叱り方だけが、先にインフラになった。