『砂のない海岸測候所』
海が撤去されたあとも、潮の匂いだけは予算に残った。
第三沿岸測候所は、九月高潮の復旧期に内陸へ造られた小さな公共施設で、午前九時と午後四時に人工の波音が流れ、希望者には砂浜を歩くときの沈み込みまで再現された。遠くには煙突が並び、風向きによっては金属の焼ける匂いが先に来る。そういう土地に置かれた海は、いつも少しだけ申し訳なさそうに青かった。
佳苗はその機械の点検員だった。本物の海は、まだ一度も見たことがない。
朝いちばんの仕事は、塩霧ノズルの詰まりを取ることだ。擬似海岸というものは、見た目より配管が多い。潮の匂いは天井裏を通り、人工波音は床下の共鳴板を鳴らし、砂の沈み込みは発泡粒子の圧でつくる。機械の側からすると、海とは大きな空調設備にすぎない。佳苗はそれを知っているし、知っているからこそ、ときどき少しうんざりした。
床の端で、六輪式の保守ロボットのM-8が回収ブラシを回していた。子どもたちはみんな“タコ”と呼ぶ。
「本日、サビシサ、南南東ヨリ」
最初にそれを言われたとき、佳苗は工具を取り落としそうになった。
「誰に教わったの、それ」
「トクナガ。ト、オキャク」
ロボットは悪びれない。たいていのロボットは、悪びれない。
毎週木曜、徳永という老人が来た。受付名簿には元沿岸観測員とある。沿岸そのものが、防壁か埋立地か立入禁止区域に変わって久しい時代に、その肩書は少し幽霊じみていた。徳永は擬似水平線の前に立ち、誰に頼まれたわけでもなく海況を言う。
「今日はクラゲが多い」
「東のベンチに未達が一件」
「離岸流は弱いが、帰る先の決まらない人が多い」
もちろん、ここにクラゲはいない。
未達というのも、海の用語ではない。
それでも徳永がそう言うと、ベンチの客が少しだけ顔を上げた。そこが佳苗には気に入らなかったし、少しだけ羨ましくもあった。自分の仕事はノズルの詰まりを取ることで、海況を変えることではない。
夏の終わり、測候所の閉鎖が決まった。
文書だと、理由は簡潔だった。
治療的有効性が統計的に低い。
滞留機能は他施設へ統合可能。
役所の文章にすると、人が水平線の前で何もしない時間は、だいたい不要な設備になる。佳苗は搬出一覧を作り始めた。塩霧ノズル八系統。沈み込み床パネル十二枚。擬似風送風機三台。水平線スクリーン一式。M-8は別部署へ転用予定。そのあいだに、観測付記層――来館者についての補助メモを保存するらしい項目――が一つだけ混ざっていた。機械の部品に見えない名前だった。
「徳永さん、どうするのかしらね」
受付のパートが言った。
「どこか別の海へ行くんでしょうか」
佳苗は答えなかった。機械は移せるが、見に来る人の行先までは一覧表に書けない。
その週、小学生の社会科見学が入った。先生は入口で「海の施設です」と説明し、半分くらいの子どもが納得したふりをした。前列の男の子が手を挙げる。
「クラゲってなんですか」
佳苗は少し困った。検索すれば画像はいくらでも出る。だが、この部屋で、本物の海を知らない子にクラゲを説明するには、まず本物を一つも出せない。
そのとき徳永が、ベンチから言った。
「今日は見えない程度にいる」
「どこに」
「波打ち際」
「波打ち際って、どこ」
徳永は杖で、沈み込み床のいちばん柔らかいところを指した。
「ここらへん」
子どもたちは真剣にそこを見た。
誰も笑わなかった。
佳苗は頭が少し痛くなったが、止める気にもなれなかった。
見学が終わったあと、徳永が観測ノートを忘れていった。返そうとして開き、佳苗は立ち止まった。
天気図ではなかった。
来館者の記録だった。
九月三日 補助待機多し。喪服二。誰も水に入らず。
九月十日 未達一件。銀缶のまま開けず。東ベンチに滞留。
九月十三日 欠番の親子。住所欄で停止。砂沈み込み弱め。
九月十七日 白い傘の人。待ち合わせ。来ず。風強し。
海の記録ではない。
明らかに、人の記録だった。
その夜、佳苗は閉鎖資料のついでに古い共有フォルダを漁った。新人権限では見えないはずの階層まで、庁内サーバは妙に気前よく口を開けていた。観測付記層で検索すると、心理福祉課と通信監理庁の連名になった、九月高潮直後の運用要綱が出てきた。
九月高潮後沿岸喪失者補助滞留所暫定運用
――海岸代替景観設備を用い、宛先未確定者、仮登録待機者、未達便受領前後の者、家族照合前の者に対し、理由聴取を省略した一時滞留場所を提供する。
施設名のところには、のちに訂正印で「測候所」と上から打たれていた。改訂履歴の途中で、滞留は保養に、待機は観覧に言い換えられていた。末尾に、手書きの一行だけが残っていた。
海を見たい、で通せるならそのほうが早い。
翌週、佳苗はノートを徳永へ返しながら聞いた。
「ここ、最初は保養所じゃなかったんですか」
徳永は擬似水平線を見たまま答えた。
「保養でもあり、待機でもありました」
「待機」
「待機所と言うと、人は自分が遅れている気がするでしょう」
徳永は杖の先で、ベンチの端を軽く叩いた。
「海を見に来た、のほうが少し座りやすい。理由も聞かれにくい」
佳苗は黙った。
「未達の声を開く前の人も来ました。仮登録の順番待ちも、家族と照合がつくまでの人も、誰かの代理で来ていて自分の用件を言いたくない人も来た。あのころは、どこの窓口もいっぱいでしたから」
「だから、人のことばかり書いていたんですね」
「本物の海でも同じです」
徳永は平然としていた。
「みんな、向こう側なんか見ていない。自分の手前のものを見ている。帰る先がまだないこととか、聞く前の声とか、名前を書けない紙とか。私は昔から、それを海況として記録していました」
理屈としてはだいぶ雑だった。
でも、九月高潮後の要綱よりは少しましな呼び方に思えた。
「あなたは本物の海を見たことがないんでしたね」
徳永が急に言った。
「はい」
「それは悪くない。本物を知らない人は、偽物を粗末にしにくい」
閉館前の最後の一般開放日は、皮肉にも機器停止試験と重なった。電力節約のため、波音も送風機も止める。水平線スクリーンも最低輝度。施設としてはいちばんみすぼらしい日に、最後の客を入れることになった。
それでも人は来た。
制服姿の女の子が、住所欄だけ空いた申込用紙を二つ折りにして持っていた。
銀色の小さな音声缶を膝にのせた女は、再生もせず水平線を見ていた。
白いビニール傘の老人は、ベンチの端を少しだけ空けて座った。
見学の日にクラゲを聞いた男の子は、今日は祖母と一緒に来ていた。
それに、徳永。
みんな、電源の落ちた薄暗い水平線の前に、妙に律儀に座った。
利用票の記入台は、もう片づけてあった。記名受付を止めたので、端末上の滞留人数はゼロだった。閉館確認は、そのゼロを送れば終わる。観測付記層の削除予約も同時に走る。だがベンチは埋まっていたので、そのゼロだけが妙に押しにくかった。
M-8が床を転がってきて言った。
「本日、ホリュウ、多シ」
誰も笑わなかった。
でも、何人かが顔を上げた。
「風、少しだけ出せますか」
徳永が佳苗に言った。
「点検用なら」
「それで十分です」
佳苗は少し迷ってから、局所ファンだけを回した。塩霧ノズルも一系統だけ開く。商用運転ではないから、風向きはむらだし、塩気も手前に偏る。けれど、完全な無風よりはずっとよかった。
すると、あの男の子がまた聞いた。
「クラゲ、どこ」
佳苗は倉庫から透明な清掃用フィルムの切れ端を持ってきた。細長く裂いて、天井のメンテナンスレールへ吊るす。局所ファンを少し強めると、それがゆらゆら動いた。
ひどく安っぽいクラゲだった。
でも、その日にはちょうどよかった。
徳永は閉じたままの館内放送マイクを持った。電源は入っていない。なのに構わず口を寄せる。
「本日の海況をお知らせします」
誰に頼まれたわけでもない声だった。
「午前中はおだやか。午後より保留少々。東側に未達一件。欠番は浅瀬を好みます。待ち合わせは長引く見込みです。クラゲは多いが、刺されるほどではありません」
白い傘の老人が、空けていた隣席を少しだけ撫でた。
住所欄の空いた紙を持つ女の子は、沈み込み床の浅いほうへ靴先を寄せた。
銀の音声缶を持つ女は、はじめて缶から手を離した。
男の子は祖母に向かって、小さく「いるね」と言った。
誰も互いの事情を聞かなかった。
それがこの場所のいちばん海らしいところかもしれないと、佳苗はそのとき思った。
しばらくして、缶を持った女がぽつりと言った。
「聞く前に座る場所があると、少しだけ助かりますね」
誰に向けた言葉でもなかった。
徳永はうなずきもせず、擬似水平線を見たまま言った。
「本物の海も、だいたいそういう使われ方をします」
閉鎖は予定どおり実行された。看板は外され、機械は順番にばらされた。搬出一覧の横にチェックが増え、潮の匂いは日に日に薄くなった。観測付記層のデータは、サーバから消去対象へ移された。代わりに、徳永の観測ノートだけが紙のまま佳苗に渡された。
「紙は削除に弱いので」
徳永はそれだけ言った。
最後まで残った小型水平線パネル一枚と、ベンチ二つと、塩霧ノズル一系統と、M-8は、市立高齢者住宅の屋上へ移された。予算科目は治療設備ではなく、地域交流備品に変わっていた。そのほうがたぶん長持ちする。
冬のはじめ、佳苗は新しい点検へ行った。屋上にはベンチが二つ、小さな水平線が一枚、塩霧ノズルが一つだけ。海と呼ぶには頼りない。だが、座る場所としては十分だった。
入居者の老人が二人、黙って座っていた。誰も水平線を褒めない。褒めないが、帰りもしない。
M-8が、以前より少し小さい声で言った。
「本日、ホリュウ、少々」
佳苗は点検票の余白に、はじめて自分で海況を書いた。
晴れ。
波はなし。
保留少々。
クラゲはいることにする。