『欠番住民票』
七十三番の番号札は、その朝いちども鳴らなかった。
七十二番の次に七十四番が鳴り、待合の誰も顔を上げなかったので、私は自分だけが見てはいけない欠け方を見た気がした。区民課に配属されて三日目だった。古い発券機は紙詰まりもするし、ときどき番号も飛ぶ。そう思っていったん忘れた。
昼休みに、その七十三番の男が窓口へ来た。
「住めないので、住民票をください」
年齢の見当がつきにくい顔だった。若くも老いても見える。濡れたような黒い上着を着ていて、胸ポケットから丸めた番号札がのぞいていた。たしかに七十三番だった。
私はマニュアルどおり、氏名と住所を聞いた。
「木戸修です」
「ご住所は」
「東雲四丁目零番地」
「零番地、ですか」
「そう呼ばれてます。あのへんは、番地があまり落ち着かないので」
私は端末に打ち込んだ。候補は出ず、灰色の表示だけが出た。
該当アドレスは行政責任外です。
責任外、という言い方がいやだった。住所ではなく、折れた傘か何かを見ているみたいだった。
隣の席の先輩を呼ぶと、先輩は画面を一目見て、すぐ眉を元に戻した。
「ああ、境界の欠番ですね。向こうの区に案内して」
「向こうで受けてもらえなかったので、こちらに来ました」
木戸さんは言った。怒っている声ではなかった。順番待ちの続きをしている人の声だった。
先輩は引き出しから広域地図を出し、川沿いの一帯を蛍光ペンで囲った。
「高潮のあと、河川改修と町名整理が重なった地区です。正式にはどこにも入ってない。こっちでも受けられないし、向こうでも無理。次のシステム改修まで待ってください」
「次はいつですか」
「未定です」
木戸さんは番号札を見た。見たあと、机の上に置いた。
「じゃあ、住めないままですね」
その言い方は愚痴ではなく、天気予報の補足みたいに平らだった。私は何も返せなかった。
区役所という建物は、だいたいのことを待たせるようにできている。椅子も、番号札も、蛍光灯も、だいたいそういう発想で並んでいる。けれど、待つためには、まず存在していなければならない。そこに急に腹が立った。
終業後、私は東雲四丁目のほうへ行った。
川沿いを二十分ほど歩くと、閉業したショッピングモールが見えた。看板の文字は半分剥がれ、「しののめプラザ」は「ののプラ」くらいに痩せていた。立入禁止の柵は横にずらされ、買い物カートが二台、妙にきれいに並べてある。
中は思っていたより、ちゃんと暮らしだった。
元眼鏡店には診療用の簡易ベッドが一台あり、フードコートでは大鍋が湯気を上げていた。ゲームセンター跡のガラスには洗濯物が吊られ、子ども服売り場の壁には九九表が貼ってある。ペットショップの水槽には魚ではなくネギが浸かっていた。エスカレーターは止まったまま木の板で塞がれ、その上にサンダルが何足か並べてあった。
木戸さんは、元惣菜売り場のカウンターで私を待っていた。
「来ると思ってました」
「どうしてですか」
「あなた、七十三番を見た顔をしていたので」
どういう顔なのか、聞かなかった。
ここに住んでいるのは三十七人。高齢者が多く、子どもが六人いた。河川の付け替え工事のとき、このモールは三つの区の境目にまたがっていたせいで、町名整理の図上から線一本分だけこぼれたらしい。住所がないから固定資産税も来ない。住民票も出ない。保険証も作れない。ごみ回収も定期便は来ない。だから彼らは自分たちで雨水をため、発電機を直し、閉店後のドラッグストアの棚を薬箱にして暮らしていた。
「便利そうだと言う人もいます」
木戸さんは、布巾でカウンターを拭きながら言った。
「税金も来ない、家賃も曖昧、追われてる人は追跡されにくい。でも、見つからないってのは、困ったときに探してもらえないってことでもあります」
ちょうどそのとき、小学生くらいの女の子がプリントを持ってきた。模試の申込用紙だった。住所欄だけが空白になっている。
「芽衣です」
と木戸さんが言った。
芽衣は妙に礼儀正しく会釈した。
「中学、受けたいんです。でも受験票の送り先が決められないって」
別の奥から、白髪の女の人が注射薬の箱を振って見せた。
「あと三本しかないのよ。病院に行くと、保険証を出せって言うし」
さらに年配の男の人が、低い声で言った。
「見つからないほうがいい人もいるけどね」
年配の男の横で、白髪の女の人は注射薬の箱を胸に抱えていた。芽衣は模試の申込用紙の住所欄だけを親指で隠していた。
そこだけ、フードコートの空気が少し変わった。木戸さんは何も言わなかった。私は見回した。借金取りに見つかりたくない人もいるだろう。昔の勤め先に知られたくない人もいるだろう。家族にさえ今の居場所を知らせたくない人もいるかもしれない。ここは制度からこぼれた場所であると同時に、制度から隠れたい人にも都合がいいのだ。
つまり、問題は単純ではない。全員をきれいに台帳へ戻せば万事解決、ではない。
帰り道、川沿いの風が強かった。防災訓練ののぼりが歩道でばたついている。区役所へ戻ってから、私は古い共有フォルダを漁った。新人の権限では本来そこまで見られないはずだが、役所の共有フォルダはたいてい親切すぎる。
日付の古い災害対策資料のなかに、ひとつだけ使えそうな文書があった。
広域風水害時一時居所確認票
発災前後二十四時間に限り、居所未確定者について、公的支援接続のための仮登録を認める。
名目は避難訓練でよかった。季節もちょうど台風前だ。発災前後という曖昧な言い方も、この国ではたいへん役に立つ。必要なのは予算と、断られたときに少しだけ面倒そうな顔をしない勇気だった。
課長は最初、嫌そうな沈黙をした。
「前例がない」
「欠番があるのも、前例としてよくないです」
「君、配属何日目だっけ」
「四日目です」
課長は私を見たあと、急に机の上の書類を整えた。笑う代わりに、役人はよく書類を揃える。
「防災訓練の残額が少しある。二十四時間だぞ」
「二十四時間で十分です」
ほんとうに十分かはわからなかった。でも、二十四時間あれば椅子には座れる。番号は呼べる。紙は渡せる。
その代わり、条件をひとつ付けられた。
「本登録はしない。場所の恒久認定にも使わない。それから、見つからないほうがいい人を無理に引っ張り出すな」
そこは正しかった。私はうなずいた。
訓練当日の朝、私はいつもより一時間早く出勤した。発券機の保守画面を開き、「欠番自動補正」の項目を外す。古い機械は少し唸ったあと、試し刷りで七十三番を吐き出した。薄い紙だった。私はそれを胸ポケットに入れた。
九時半、東雲四丁目の人たちがやってきた。
みんな妙にきれいな服を着ていた。服がきれいというより、今日だけは皺を伸ばしてきたのだとわかった。待合の椅子に座る前、何人かが本当に座っていいのか確かめるように、背もたれへそっと手を置いた。
「座るために置いてあります」
そう言うと、芽衣が最初に腰を下ろした。安心した顔はしなかった。慣れていない人間は、安心より先に姿勢を正す。
私はマイクを入れた。
「七十三番の方」
木戸さんが、ほんの少し間を置いて立ち上がった。
呼ばれる人の動作は驚くほど小さい。けれど、その小ささで待合室の空気が変わる。存在する人が一人増えると、部屋は少しだけ広くなる。
木戸さんには一時居所確認票と、医療相談窓口への接続票を出した。芽衣には災害時支援センターの受取箱を、受験票の仮送達先として使えるよう手続きした。火葬記録がどこにもないと言っていた男には、仮登録のあいだだけ検索対象を広げられるよう申請を書いた。
白髪の女の人は、最後まで待合の柱の影に立っていた。座らない人の立ち方ではなく、呼ばれないまま帰れるようにしている人の立ち方だった。
私は窓口を離れて、そちらへ行った。
「紹介状だけなら、もらいます」
女の人は箱を胸に抱えたまま言った。
「保険は、まだつながないで」
「つながないと、継続処方の確認が難しいかもしれません」
「前の名字でつながるのよ」
それだけで十分だった。どういう事情かは聞かなかった。聞いていい顔ではなかった。
私は医療相談用の様式を開いた。災害時の臨時接続なら、紙だけで回せるはずだった。だが端末は余計に親切で、生年月日と下の名前だけから候補を拾い、受付票を半枚だけ印字した。そこに、彼女がいまは使っていないのだろう名字の頭二文字が出た。
私はすぐ紙を裏返したが、彼女はもう見ていた。
「だから来たくなかったの」
怒っている声ではなかった。制度の仕組みを先に知っていた人の声だった。
私は謝った。謝りながら、裏返した紙をシュレッダー箱へ押し込んだ。紙は軽すぎて、途中で少し浮いた。
そのまま窓口の奥の電話を取った。市立病院の災害相談窓口へかける。
「居所未確定者です。継続薬の照合はできません。紙の紹介だけで受けてもらえますか。本人が残薬を持っています」
保留音のあと、向こうの看護師は言った。
「災害時の臨時外来扱いなら受けます。ただし、次回まで同じ方法が使える保証はできません」
私は「それで十分です」と言った。ほんとうに十分かはわからなかったが、さっきと同じように言った。
紹介票には氏名欄の代わりに、居所未確定者と書いた。番号札の控えをホチキスで留める。女の人はしばらく紙を見てから、ようやくそれを受け取った。
「次も、これで行けるとは限らないのね」
「はい」
「そうでしょうね」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
二十四時間ぶんの国家は、思っていたより忙しかった。椅子を出し、番号を呼び、紙を渡す。その一方で、思っていたよりすぐ、人の過去に触った。
その日のあいだに、来なかった人もいる。見つからないままでいたい人たちだ。木戸さんはそれを無理に責めなかった。
「人によって、欲しいのは住民票じゃなくて、窓口だけなんです」
昼休み、彼はそう言った。
私は紙コップのぬるいお茶を飲みながら、少し考えた。
たしかにそうだった。全員が台帳に戻りたいわけではない。けれど、病気のとき、試験のとき、死んだ人をちゃんと死んだことにしたいときだけは、国家に見つかりたい。あるいは、見つかりたくないまま、紙だけ受け取りたい。そういう我儘に制度はあまり慣れていない。制度のほうは、見つけるか、見つけないか、どちらか一つで済ませたがる。
夕方近く、課長が様子を見に来た。待合の椅子が埋まり、普段より静かなざわめきがあるのを見て、何も言わなかった。ただ、受付番号の表示板で七十三が光っているのを見て、少しだけ目を細めた。
「発券機、直ったのか」
「いえ。少し壊しました」
課長は鼻で笑った。
窓口が閉まるころには、待合に残っていたのは疲れた空気と、飲みかけの紙コップだけだった。端末では仮登録が順番に閉じていき、名前の表示が灰色になっていく。制度は律儀で、二十四時間の約束を一分も超えない。
木戸さんが最後に伝票の控えを受け取りながら言った。
「明日になったら、また消えるんですよね」
「台帳上は、たぶん」
「たぶん、ですか」
「でも、来月も訓練を組みます」
「毎月災害が来ることになりますよ」
「この国では、わりと普通です」
木戸さんはそのとき初めて笑った。笑うと少し若く見えた。
翌朝、私は机の裏に小さな紙を貼った。
欠番の方は窓口で声をかけてください。
呼び出しが困る方は、小さく言ってください。
誰にも言わずに貼った。見つかれば剥がされるだろうし、その程度の紙だった。だから、ちょうどよかった。引き出しの奥には、試し刷りの七十三番を一枚だけ残した。欠番の人が来たときに渡すためだった。
一週間後の雨の朝、開庁前のロビーで、小さな影が発券機の前に立っていた。芽衣より少し年上に見える女の子で、濡れたリュックを抱えている。手元に番号札はなかった。
「どうしました」
声をかけると、その子は発券機を見たまま言った。
「番号が出なかったんです」
私は近づいて、機械の取り出し口をのぞいた。紙は詰まっていない。出なかったのではなく、最初から出す番号がないのだとわかった。
その子は言いにくそうに続けた。
「住所、たぶん、ないので」
私は机の裏の紙を見た。雨の湿気で、二行目の端が少し浮いている。女の子はその紙を読んでから、何も言わずに私を見た。私は引き出しのいちばん奥から、あの日の試し刷りの七十三番を取り出した。
「なくした人のぶんです」
それから、マイクのスイッチを入れた。
「七十三番の方」
その子は手の中の紙と表示板を見比べてから、小さく手を挙げた。
待合の椅子は、ちょうど一脚だけ空いていた。
その空き方と、その呼ばれ方のぶんだけ、区役所は前より少しましな建物に見えた。