『友人代理制度』
九月高潮のあと、法律は親族より先に友人を定義した。
災害対応基本法改正第二十七条の三――緊急時友人代理制度。豪雨、地震、停電、急病のとき、家族以外の一名に限って、避難判断、物資受領、最低限の署名行為を代行できる。新聞はそれを「新しい絆の法制化」と書いたが、通信監理庁共同監修の申請様式には、もっと乾いた日本語で、生活接続補助、とだけあった。関係欄にはさらに雑に、友人、と印字されている。
制度というのは、たいてい名札のほうが実態に近い。
区役所地下の説明会場には、結婚相談所みたいな観葉植物が並んでいた。
壁にはこう書いてある。
血縁は選べないが、代理友人は選べます。
綾はその文句が好きではなかった。非常口の話を、結婚相談所みたいに言うなと思った。
綾はドローン整備士だった。河川監視や土砂崩れ予測に使う機体を扱っている。右耳の聴力がかなり弱く、補聴器と骨伝導受信機を使い分けていた。サイレンが重なると指示が混ざる。雨の強い日は骨伝導のほうが先に疲れる。東京に出てきて八年、近くに親族はいない。制度加入者には住宅備蓄ポイントが上乗せされると知って、説明会に申し込んだ。
向かいの席にいた柴崎は、地形図の下請けをしていた。
痩せた男で、説明動画の途中からずっと天井の染みを見ていた。集中しているのか、飽きているのか、少しわかりにくい顔だった。
制度は居住圏と移動能力で、仮の相手を割り当てる。
隣に座らされているのは偶然ではない。
加入動機欄には、綾が「備蓄支援」と書き、柴崎は「緊急連絡先」と書いた。
その字は几帳面だったが、雑談する気のない字でもあった。
担当職員が説明した。
「平時に親しくなる必要はありません。
ただし、相手の生活上の重要事項は把握してください。
避難時の移動能力、服薬、連絡手段、署名代行の許容範囲などです」
隣で柴崎が、目に見えないくらい小さくため息をついた。
綾も同じことをした。
そのあと配られた相互確認票の項目が、ひどかった。
避難時にかけてほしい言葉
倒れていた場合に勝手に開けてよい引き出し
非常時に持ち出してほしい物品三点
自分の機嫌が最悪のときに近づいてほしい距離
音声通話・文字連絡の優先順位
薬・機器の予備電源保管場所
綾は少し考えてから書いた。
かけてほしい言葉:話しかけなくていい
開けてよい引き出し:机左下
持ち出してほしい物:補聴器電池、身分証、歯ブラシ
距離:一メートル
連絡:文字優先
予備電源:冷蔵庫上の青い缶
柴崎はこう書いた。
かけてほしい言葉:箇条書きで指示
開けてよい引き出し:本棚下段
持ち出してほしい物:常用薬、保険証、植物以外
距離:二メートル
連絡:文字のみでも可
予備電源:玄関棚の白箱
「植物以外って何ですか」
綾が聞くと、柴崎は表情を変えずに答えた。
「非常時に観葉植物まで背負う人間は信用できないので、先に除外しておきます」
少しだけまともな返答だった。
会場の最後に、二人は署名欄へ互いの名前を書いた。
綾が「柴崎圭介」と書いた字は、人を助ける気がある字ではなく、間違えると面倒だから慎重に書いた字だった。柴崎が「綾瀬綾」と書いた字も、だいたい同じ種類の丁寧さをしていた。
それで制度上、二人は友人になった。
最初の一か月は、ほとんど事務だった。
役所から送られてきた手順書に従って、月一回の確認通話。
互いの避難経路の確認。
冷蔵庫に貼る「私が倒れたときノート」の作成。
ノートは制度の中核だった。
家族にも見せたくないが、非常時には他人に見せないと困ることだけを書く。
綾のノートには、右から話しかけても聞き取りにくいこと、豪雨時はサイレンと人の声が重なると指示が抜けること、補聴器電池の型番、受信機の充電ケーブルの位置、冷蔵庫の中の薬は勝手に整理しないこと、風呂場の椅子が滑りやすいこと、マンションの非常階段は三階でいちど暗くなることが書いてある。
柴崎のノートには、土砂災害警報が出ると呼吸が浅くなり、電話に出ず、ベランダへ出る癖があること、薬は本棚下段の白い缶、眠れない夜は台所の床で寝ること、鉛筆は使うがシャープペンは苛立ちを増やすこと、玄関の上がり框でよく靴を脱ぎ散らかすこと、非常時にノートPCは置いて行ってよいことが書いてあった。
「PC、未練あるんですね」
二度目の確認で綾が言うと、柴崎はうなずいた。
「あります。でも持って行くと判断が遅くなるので、置いていくと決めておいたほうがいい」
それは賢い言い方だった。
あらかじめ捨てる物を決めておくのは、たいてい役に立つ。
二人は月に一度だけ会った。
喫茶店ではなく、だいたいどちらかの玄関先で。
部屋へ上がる時間は十分くらい。
冷蔵庫の磁石が剥がれていないか、薬の期限が切れていないか、予備電池がまだあるか、非常食が賞味期限を過ぎていないかを見る。話すことは少ない。
「この階段、夜は危ないですね」
「あなたの本棚、下段だけ防水しといたほうがいいです」
「植物の水やり表、災害ノートからは外したほうがいいです」
「補聴器の箱、目立つ色のほうが探しやすい」
親しくはならなかった。誕生日も好物も知らないまま、薬の場所と最悪時の癖だけが増えていった。その乾いた知識は友情には足りず、避難にはよく効いた。
七月の熱波の週、柴崎が月例確認を一度飛ばした。
制度には、余計な補則がひとつある。確認通話と文字連絡が四十八時間ともに未応答だと、代理人は「保留確認」を申請できる。安否確認か、ただの放置かは、たいてい後からしかわからない。
綾はその表示を勤務中に見た。
代理友人確認 保留
対象:柴崎圭介
連絡不能:四十八時間
彼の地区に土砂警報は出ていない。
停電もない。
ただ気温が高く、夜になっても空気がぬるいだけだった。
文字を二通送った。返事はない。
電話も鳴るだけだった。
帰り道、綾は少し迷った。
迷ったが、制度というのは、迷っている人間に先回りして理由をくれる。
柴崎のアパートの管理人は、代理カードを見ると嫌そうな顔をした。
嫌そうな顔は正しかった。こういう権限は、だいたい正しい嫌われ方をする。
「火事とかじゃないんでしょう」
「たぶん違います」
「たぶんで開けるのか」
「たぶんでしか来られない制度なんです」
我ながら、よくない言い方だった。
部屋の中は暑かった。
扇風機だけが回っていて、窓際の植物が少ししおれている。
床には地形図が何枚か散っていた。台所の床で、柴崎が片腕を目に乗せたまま寝ていた。生きているのは呼吸でわかった。電話は冷蔵庫の上に置きっぱなしで、消音のままになっている。
綾は少しだけ安心して、それから、余計なことをした。
本棚下段の白い缶を開けて薬の残りを見た。
机の上に水を置き、窓を少しだけ開けた。
そこまでやったとき、柴崎が目を開けた。
「何してるんですか」
起きたばかりの声ではなかった。
最初から機嫌の悪い人の声だった。
綾は立ったまま、代理カードを見せた。
「月例確認が返ってこなかったので。保留確認です」
柴崎は起き上がり、床に落ちていた地図をたたんだ。
それから、机の上の水と、開いた白い缶を見た。
「そこまで開けたんですね」
綾は何も言えなかった。
「制度上は正しいですね」
「すみません。倒れていたら困るので」
「倒れてません」
「わかっています」
「わかってから言うのも、だいぶ遅いです」
室内の暑さが急に悪い種類のものに思えた。
柴崎は少し間を置いてから言った。
「非常用の知識を平日に使われると、生活が全部災害みたいになります」
その一文で十分だった。
薬の場所、床で寝る癖、連絡が途切れる癖。
綾が善意だと思っていたものが、相手の側では生活の奥まで勝手に入ってくる鍵になる。
「……ごめんなさい」
と綾は言った。
柴崎はうなずきもしなかった。
「代理人に渡したのは、最悪のときの手順です。
最悪じゃない日まで見られるのは、あまり気分のいいものじゃない」
綾は白い缶のふたを閉めた。
水のコップをそのままにして、部屋を出た。
帰りの階段で、自分のノートを読み返した。
右から話しかけないこと。
補聴器電池の型番。
冷蔵庫上の青い缶。
他人に教えたときは合理的に見えた項目が、急にどれも部屋の鍵穴みたいに思えた。
人を助ける手順を知ることと、近づいていい距離を知ることは、別の仕事だった。
制度は前者しか教えない。
その月の点検は、ひどく事務的になった。
綾は玄関の敷居を越えず、柴崎もチェーンを外さなかった。
磁石の位置だけ確認して、薬の期限だけ読み上げる。
会話は短く、改善点は箇条書きで済んだ。
ただ、制度は律儀なので、更新用紙だけは毎月届く。
八月の様式には新しい空欄が増えていた。
未応答を災害扱いしてよい条件
どちらも、しばらくそこを空欄のままにした。
九月の終わり、三日続けて雨が降った。
綾の職場では河川監視用ドローンが飛びっぱなしで、バッテリー交換と簡易修理が追いつかなくなっていた。夕方、骨伝導受信機に制度通知が入る。
代理友人安否確認要請
対象:柴崎圭介
未応答
警戒種別:土砂災害
綾は手を止めた。
整備台の上で、濡れたローターが虫みたいに光っている。
文字メッセージを送る。
返事はない。
電話はつながらない。
綾は冷蔵庫に貼ってある柴崎のノート写真を開いた。
土砂災害警報で呼吸が浅くなる。
電話に出ない。
ベランダへ出る癖がある。
そして、その下に、まだ空欄のままの項目がある。
未応答を災害扱いしてよい条件:
綾はそこをしばらく見た。
七月の暑い部屋が頭をよぎった。
返事のない日まで災害にされると息苦しい、と言われた声も。
「最悪だな」
と綾は言った。
制度はよくできているが、こういうとき一番必要な一行だけ、本人たちに書かせたまま空欄で残している。
彼女は整備中だった小型点検ドローンを一機持ち出した。
正式用途ではない。けれど現場というのは、正式用途だけを守っていると人が遅れる。管理端末の使用目的欄には、「外壁目視確認」とだけ入れた。嘘ではない。見るのは外壁だし、その手前にいる人間もついでに見るだけだ。
雨の隙間を縫って、ドローンは柴崎のアパート前まで飛んだ。
画面がぶれる。
四階のベランダに白いシャツが見えた。
手すりのところに、細い影がじっと立っている。
いた。
そして、動いていない。
綾は受信機を音声から文字送信に切り替えた。
長い説明を打ちかけて、全部消した。
それから、ノートに書かれている形式そのままで送る。
北側階段
PCいらない
薬だけ持つ
ドローンの光を見る
送信すると、柴崎が少し遅れて顔を上げた。
雨で髪が額に張りついている。呆けた顔だった。恐怖で固まった人間は、一瞬だけ子どもの顔になる。
綾はドローンの前面ライトを点滅させた。
柴崎は一度部屋へ入り、ノートPCを抱えて出てきかけて、止まった。
それから白い缶だけ持って、ライトのほうへ歩き始めた。
綾はその画面を見ながら、七月に開けた白い缶の感触を思い出した。
今度は、向こうが自分で持っている。
それで少しだけ救われた気がした。
よかった、と思ったのはその瞬間だけだった。
綾のほうも、だいぶ危なくなっていた。
連続作業で補聴器電池が切れかけていたのだ。予備は家にある。だが職場から柴崎の地区へ入れば、戻り道が詰まるかもしれない。骨伝導受信機だけでは、サイレンと人の声が重なると指示が飛ぶ。
二つ目の通知が来た。
綾瀬綾
浸水警戒区域進入
避難勧告準備
笑ってしまうくらい制度的だった。
他人の避難を手伝っているあいだに、自分も制度の対象になる。
綾が一瞬立ち止まったとき、柴崎から初めて通話が来た。
音声ではなく、画面共有だった。彼はコンビニの軒下に立ち、大きなメモ帳をカメラへ向けていた。
病院前の当直窓口
代理カードで電池受取可
あなたのノートに書いてある
綾は少しだけ感心した。
他人に預けた自分の弱点が、そのまま自分を助ける形で返ってくる。しかも、七月の自分みたいに部屋へ入りはしない。
必要なところだけが、きちんと返ってくる。
彼女は病院前で電池を受け取り、柴崎とは別々のルートで地区センターへ避難した。
体育館ではなく、多目的室だった。床の冷たい部屋で、濡れた靴とクラッカーの匂いがする。折りたたみ椅子が並び、壁際のコンセントには人が群がっていた。
綾は補聴器電池を入れ替え、ようやく周囲の声が形になるのを感じた。
柴崎は壁にもたれて、まだ少し呼吸が浅い。
「今日は、部屋まで入らずに済みました」
綾が言うと、柴崎はペットボトルの水を見たまま答えた。
「今日は警報が出ていたので」
それから少し遅れて、
「前はただの不眠でした」
と付け足した。
綾はうなずいた。
それでだいたい十分だった。
避難所では、制度の穴がすぐ見えた。
一対一では足りないのだ。
代理友人が同時に被災したら終わる。
そもそも登録していない人も多い。
高齢の夫婦が二人とも腰を痛めて何も運べない。
一人暮らしの男が猫を家に残して泣きそうになっている。
補聴器の電池がどこかにあると言う女性が、どの引き出しか思い出せない。
制度はきれいだが、現場はきれいではない。
受付のホワイトボードの前で、綾はマーカーを借りた。
勝手に大きく書く。
聞こえにくい側
常用薬の場所
文字/音声どちらが通るか
パニック時の癖
勝手に開けてよい引き出し
捨ててよい物
連れて行く動物
家の鍵の預け先
未応答を災害扱いしてよい条件
職員が少し嫌そうな顔をした。
「これは制度外です」
「制度が足りてないだけです」
綾は振り向かずに言った。
そのとき、柴崎が隣に来て、自分のメモ帳から一枚破った。
そこへ大きく書いて、白板の横へ貼る。
長文禁止。
箇条書き推奨。
それを見て、若い母親が笑った。
笑ってから、自分の家のことを書き足した。
父は怒鳴るが怒っているわけではない
母は歩けるが、自分ではそう言わない
猫二匹。押入れ右。キャリー黒
警報なしの未応答は六時間待つ
柴崎がその下に、さらに一行だけ足した。
補聴器電池 冷蔵庫上の缶
綾はそれを見て、一瞬だけ息を止めた。
前なら侵入だったかもしれない。
でも今夜は、誰かが自分の弱点を書き出すのを恥ずかしがらなくていいようにするための一行だった。
壁は二時間もしないうちに、他人の癖だらけになった。
どの家に何があって、誰は何を言われると固まり、何なら置いてきてもよくて、何だけは持ち出したほうがいいか。未応答をどの時点で本当に危険と見なすか。
法的効力は一つもない。
けれど、非常時の人間に必要なのは、法的効力より先に具体だった。
深夜近く、柴崎がホワイトボードを見ながら言った。
「これ、制度違反では」
「制度が遅いだけです」
綾は椅子の上で靴下を絞りながら答えた。
柴崎は少し考えてから、うなずいた。
「たしかに。
地図も、だいたい現地より遅い」
その夜、地区センターには妙な連帯ができた。
連帯と言っても、美しいものではない。
誰かが誰かの鍵の在処を知り、誰かが誰かの父親の怒鳴り方を誤解しないようになり、誰かが補聴器電池の型番を紙に書き写す。その程度だ。
だが洪水の夜に一番役に立つのは、だいたいそういう乾いた情報だった。
翌朝、雨は弱くなった。
大きな崩落は一か所で済み、電車も昼には動く見込みが出た。地区センターの白板には、夜のあいだに書き足された情報がびっしり残っていた。職員が消すべきか迷っている顔をしていたので、綾は言った。
「消すなら、写真を撮ってからにしてください」
その日の午後、掲示板には新しい紙が貼られた。
代理友人網(補助登録)
法的効力はない。
ただの地域メモだ。
それでも、災害の夜に人が先に頼るのは、たいていそういう紙のほうだった。
それから二か月後の点検日に、綾は柴崎の部屋の冷蔵庫へ新しいノートを貼った。
前より少し厚い紙で、項目も増えている。
聞こえにくい側
常用薬
パニック時の癖
文字優先か音声優先か
捨てていい物
植物は置いていく
未応答を災害扱いしてよい条件
勝手に開けてよい範囲
代理友人以外に頼れる人
空欄だった行も、今度は埋まっていた。
綾のほうには、
警報あり/停電あり/骨伝導受信不可のとき
机左下までは可、寝室は不可
とある。
柴崎のほうには、
土砂警報あり/自治体通知あり/ベランダ確認時
本棚下段と台所まで可、それ以上は要呼びかけ
と書いてある。
「項目、増えましたね」
柴崎が言う。
「足りなかったので」
「保留欄も埋めたんですね」
「全部助けると息苦しいので」
綾はそう言って、冷蔵庫の磁石を押し直した。
部屋の隅の植物は、相変わらず不必要に元気だった。
二人は今も月に一度、ノートを更新している。
親しいわけではない。
雑談もあまりしない。
誕生日も知らない。
好きな映画も知らない。
けれど、補聴器電池の型番と、土砂警報でベランダへ出る癖と、捨ててよい物と捨てると面倒な物と、どこから先は勝手に入ると息苦しいかは知っている。
この種の知識は、友情と呼ぶには乾きすぎている。
だが、洪水の夜に一番役に立つのは、だいたいそういう乾いた部分だ。
更新用紙の関係欄を見ながら、綾が聞いた。
「これ、分類は何になるんでしょうね」
柴崎は少し考えた。
ペン先を浮かせてから、迷いの少ない字で書いた。
避難可能な他人
ロマンはなかった。
その代わり、境界線まで書き込んだぶんだけ、前より少し信用できる言い方だった。